本日 789 人 - 昨日 776 人 - 累計 1067021 人

南方熊楠

【南方熊楠】

多くの方がこの名前を知らないと思います。
とにかく奇行の多い人だったらしいです。
しかし後世に残したものは大きなものがあります。
特に自然保護には努力をなされています。

柳田国男は「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」と言っています。
博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、その他。

彼の生涯を載せると途方も無く長くなりますのでそれはリンクに
任せてエピソードと言葉だけを綴ります。

1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を
練り、建設資金集めに奔走していました。この年に寄付を求める為に
書いた「履歴書」が、超密度の濃い人生を象徴するかのように
7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、
世界最長の履歴書と言われています。翌年には資金作りの為に
『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が
刊行されました。海外への論文は何度も書いていましたが、国内に
向けた一般著書はこれが初めて。59歳での初出版となり、人々は
随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆しました。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に
訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、
最後に粘菌標本を天皇に献上しました。戦前の天皇は神であったから、
献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識でしたが、
なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上しました。
「アッ」と現場にいた者は全員が固まりましたが、この場はそのまま無事
に収まりました。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので
覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は
「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったといいます。
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見て
こう詠んだ

「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

「ネイチャー」に論文が載るのは研究者の夢ですが、科学者なら一生に
一度は掲載されるのが夢です。。東大、ハーバード、ケンブリッジ、
どこの大学教授も、研究チームもいつかはネイチャーに”というのが悲願。
それを熊楠は51回。
しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、
彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリします。

独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な
業績を残した人間が実在したということが驚きです。

「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような
      阿呆共の仲間になることはない」


粘菌や昆虫(害虫も含めて)など微小なものを徹底して観察した熊楠は
こう言っています

「世界に不要なものなし」

外部リンク 南方熊楠

外部リンク 南方熊楠のエピソード

| 00:10 | 未分類
コメント
name.. :記憶

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):
  • 記事検索
  • 内容検索
RSS