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蒼龍窟・古賀謹一郎・斎藤拙堂・山田方谷

【蒼龍窟・古賀謹一郎・斎藤拙堂・山田方谷】

ある人物に共通している名前ですが、誰だかわかりますか。
答えは越後長岡藩家老「河井継之助」です。
蒼龍窟は号で、後の3人は継之助が弟子入りした方々です。
小生は河井継之助を主人公とした司馬遼太郎氏の「峠」のファンです。
もうボロボロになるまで何回も読んでは何回も買い換えています。

長岡藩の河井継之助が亡くなったのは、慶応4(1868)年8月16日、
南会津郡伊北村塩沢の村医・矢沢宗益の邸宅でのことでした。

 「死生は私には仕らず候」
  (しせいは、わたくしにはつかまつらずそうろう)

死ぬか生きるか、それは自分の手でどうにでも出来るものではない。
ことここに至っては、死生は自分とは関係の無いものになっている。

この手紙を書いた時、継之助はこのまま長岡の地で死ぬことを
決意していたのです。そして、この手紙が継之助の絶筆となり、
遺書となりました。

 「かわいかわい(河井)と今朝まで思い
     今は愛想もつきのすけ(継之助)」


自分も大好きだった遊郭を禁止し奢侈・贅沢を禁じたため
なじみの芸者衆が唄った俗謡です。

彼は何をしたのでしょうか。

・特権階級を廃止し徹底的な藩政改革をしました。
・当時でもめずらしいガットリング砲を購入し軍備につとめました。
・寄宿(教育)制度を作り若者を育てようとしました。
・遊郭、博打、賄賂を禁止しました。
・軍制をフランス式に改めた。

    等々いろいろあります。

「米百俵」で有名な小林虎三郎は親戚になりますが、どうも
気があわなくて腐儒者と罵っていたようです。
でも虎三郎の家が焼失したときは、ちゃんと援助をしています。
そこのところのエピソードがまたすごいんです。
虎三郎は継之助にお礼に行って、
自分は焼け出されて何も返すものが無い、よって自分が
普段から考えていることを述べて感謝の辞としたいと言うなり
継之助が耳を覆いたくなるような徹底的な批判をしたそうです。
継之助のことを司馬遼太郎は最後の侍と言っています。

 「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、
  教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」


小泉元総理大臣が引用して有名になった小林虎三郎の言です。

外部リンク 河井継之助

外部リンク 古賀謹一郎

外部リンク 斎藤拙堂

外部リンク 山田方谷

外部リンク 小林虎三郎

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