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菅原道真のエピソード

【菅原道真のエピソード】

菅原道真公に関してはあまりにも有名なので特にエピソードだけを
集めてみました。

「東天紅伝説」
大宰府へ向かう途中、伯母覚寿(かくじゅ)のいる大坂・河内の
土師(はじ)寺(後の道明寺)に立ち寄ることを許された菅原道真。
そして無情にも朝を告げる一番鶏の鳴き声。それが出立の合図でした。
思いのほか早い一番鶏の鳴き声に、道真は
 「なけばこそ別れもうけれ鶏の音の なからん里のあかつきもがな」
と詠みました。このことから道明寺近隣では、戦前まで鶏を飼ったり
食べてはいけない、という俗信があったといいます。「菅原伝授手習鑑
(すがわらでんじゅてならいかがみ)」道明寺の場でもこの伝説が
巧みに折り込まれています。

「くわばらくわばらの語源」
死後に雷神となったという学問の神様「菅原道真」の領地「桑原」には
落雷がなかったところから「桑原桑原(くわばらくわばら)」と
唱えると雷を逃れたという説があります。

「飛梅伝説」
道真は梅の花を好み、邸内にたくさんの梅を植えていたので、邸宅は
「紅梅殿」とも呼ばれていました。都落ちの時を迎えて、道真は紅梅と
の別れを惜しんで
 「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」
と詠みました。そんな主人の心を感じた梅が、一夜にして大宰府まで
飛んできて、根を下ろしたとか。飛んだのは紅梅でしたが、現在、
太宰府天満宮境内にある飛梅は白梅になっています。
この飛梅は今でも毎年最初に花を咲かせてくれます。

「木造が興す奇跡」
菅原道真が大宰府へ向かう途中、大坂・河内で、自らの姿を木像に
彫ったとされます。その木像は道明寺天満宮のご神体となっており、
道真の月命日の25日に御開扉ごかいひされています。また、
その際に使ったとされる鏡や刀も残され、すべて国宝となっています。
このほか近郊には、やはり道真手彫りとされるご神体をもつ神社が
いくつかあります。いよいよ大宰府へ向かうという時に道真が自ら
木像を彫ったというエピソードは、強く人々の心をとらえました。
「菅原伝授手習鑑」道明寺の場では、道真の難を救う奇跡の木像が
登場します。

「怨霊伝説」
道真の死から間もなく、藤原氏や帝の血縁が相次いで夭折し、これは
道真の祟りではないかと畏れる人々が現れました。決定的となったのは
930年に発生した、大きな落雷です。天皇が住む清涼殿に落ちた
雷により、焼死した貴族が続出し、貴族達を震撼させました。
祟りに震え上がった貴族達は、道真をなだめようと、彼の名誉を回復し
鎮魂のために祀るようになりました。雷を起こした道真は、のちに
天候をつかさどる天神信仰と習合され、「天神様」として庶民から篤く
信仰を集めました。平安時代には、タタリ神として畏れられた道真です。

「水鏡天満宮」
中央区天神のアクロス福岡前にある「水鏡天満宮」は菅原道真関連の
もので(天満宮だから当然ですが)菅原道真が京都から福岡に
左遷された時に、川に映った自分の顔を見て(つまり、川の水を鏡の
かわりにして)、なんとひどい顔をしているのだと嘆いたことが
由来となっているそうです。

「淡路」
阪急電車京都線の急行は梅田を出ると、十三、淡路、茨木の順に
止まりますが、淡路の地名の由来は大宰府に流される道真が淡路島に
着いたのかと勘違いして、「ここは淡路か?」と尋ねた故事からだと
言われています。

「讃岐国国司」
菅原道真が讃岐国国司として現在の香川県に着任していた時の話です。
道真は学者として最栄誉の「文章博士」となったあと、人事異動で
国司として讃岐国にやってきました。道真が42歳の時でした。
しばらくして宇多天皇の治世中、讃岐国は飢饉に見舞われたといいます。
この時道真は人々の苦しみを救うため、断食を七日七夜おこない、
一身を神に捧げて祈雨の願文を奏し、人々の困苦を救済することを
祈ります。すると祈りが通じたのか待望の雨が三日三晩降り続きました。
恵みの雨に喜ぶ民は老若男女を問わず、道真のいる国司の邸に集まって
歓喜の余り踊り舞いつつ、道真に感謝を表したそうです。

小生がある温泉仲間達と太宰府を巡ったときに地元のガイドさんを頼み
いろいろと興味深いお話を聞かせて貰うことができました。
例えば道真公は書が達者であり、その字には鳥がかかれているとのこと。
撥(はね)や点などに多くの鳥が見ることができます。これは鳥に
なって都に帰りたいという道真公の心を表したものと言われています。
(飛梅の木の横にある看板?にも見いだすことができます)

また大分県の川底温泉は道真公に由来のある温泉といわれています。
近くには菅原という地名があり、菅原天満宮が御鎮座なさっています。
開湯は延喜元年です。開湯伝説によれば、菅原道真が刺客を逃れて
この地来た際に発見したといわれています。

現在の旅館は1856年に開業した1軒宿の蛍川荘があり、
大浴場の湯船が作られたのはその時であり、以来そのまま
使われています。(女性専用もあります)
そ~いえば昔、娘と入湯したとき、娘がすべって派手にひっくり
かえったことを思い出しました。

これは御子孫のことであり伝説ではありません。
現在の宮司は西高辻信良(にしたかつじ のぶよし)氏です。
太宰府天満宮の(2007年9月現在)の宮司。
道真から数えて三十九代目にあたる。名字が「菅原」ではないのは、
平安の都には「菅原」の名字が多かったため、それぞれ呼び分け
するために住居の地名を名乗ったのが始まりといいます。
菅原家本家の邸宅が「高辻」にあり、更に西へ移ったため
「西高辻」となったといいます。
また、鎌倉時代に西高辻家の兄弟は別々に居を構え、兄が大きな鳥居、
弟が小さな鳥居の傍に住んだので当時は「大鳥居」と名乗っていた
そうです。ちなみに御子孫皆様方とても優秀です。

外部リンク 菅原道真

外部リンク 太宰府天満宮

外部リンク 西高辻信良宮司

外部リンク 蛍川荘

| 02:00 | 未分類
コメント
name.. :記憶

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